名勝嵐山を借景とした臨済宗の大本山。吉野で崩御した後醍醐天皇を弔うため足利尊氏が創建。
世界遺産。
嵯峨野の寺社めぐりは天龍寺からはじまる。京福嵐山本線の終着駅「嵐山」の目の前が天龍寺の境内である。
天龍寺は創建当初、いまの清凉寺あたりから嵐山までその範囲とするほど広大な寺域を誇り、京都五山の格付けで南禅寺を別格として天龍寺が第一位であった。
それは足利尊氏が夢窓疎石の法統に末代まで帰依して天龍寺を加護する置文を残したように、尊氏以下、室町幕府の絶大な支援があったことによる。
天龍寺の開山 夢窓疎石(1275~1351)は肖像や頂相などをみればわかるが、柔和な顔と極端な撫で肩の弱々しい体躯で、どこに以下に述べる偉業をなしとげたエネルギーと政治的手腕がひそんでいるのかと思うほどである。
後醍醐天皇が1339年(暦応2)に崩ずると、夢窓疎石は、天皇と対立関係にあった足利尊氏や弟の直義に後醍醐帝の菩提を弔うため一寺の建立を勧める。尊氏もかつては信任を得ていた天皇を懐かしみ、かつ自責の念もあって、荘園を寄進して建築を支援するが、それでも十分な資金の調達ができず、夢窓疎石は、直義に計って中国の元との貿易船「天龍寺船」を計画する。
この天龍寺船は1342年(康永元)秋に渡航するのだが、疎石は、博多の商人に船の運営をゆだね、利益がどれほど多くても少なくても、5000貫文を寺におさめる約束をさせる。
これにより伽藍の建築は進捗して、1345年(貞和元) 8月、後醍醐天皇の七周忌法要とともに開堂大供養が催された。一禅僧が天皇の菩提寺を立案し、元との貿易を企画して資金を集めるという大事業を成しとげたのである。
しかし、豪壮な七堂伽藍を誇った天龍寺だが、660余年あまりの歴史のなかで8回も焼けている。1358年(延文3)の火災が最初で、以後1380年(康暦2)の4度目の焼失まで2世の春屋妙葩により再建5度目は放火といわれ、堂宇のほか伝わっていた文言すべてが焼けてしまう。その次は応仁の乱により、そして江戸期に入り1815年(文化12)に焼失し、そして最後は幕末の蛤御門の変(1864年)に破れた長州軍の宿営地であったことから薩摩藩によって大砲が打ち込まれ焼かれてしまう。
現在私たちがみる建物は明治以降の建築である。
諸堂と借景の名庭園
天龍寺の参道に入ると、中央に放生池と広い樹木地、左右に甍を連ねる塔頭の塀をみて、正面の法堂にいたる。この法堂は通常は非公開であるが、堂内に釈迦像と夢窓疎石、足利尊氏の木像を安置する。また、天井の龍の絵は近年になって加山又造の「雲龍図」が掲げられた。
拝観受付のある庫裏から本尊の木像釈迦如来坐像を安置する大方丈に入る。東庭は静かな白砂敷の庭、西は広縁の先に曹源池を中心とする庭園、書院から廊下を渡って、1934年(昭和9)に完成した後醍醐帝聖廟の多宝殿をめぐる。いったん庫裏に戻って、庭園入口から大方丈をぐるりと回ると、名庭として名高い池泉回遊式の天龍寺庭園が広がる。曹源池を中心に亀山や嵐山を借景にして、池の周囲をかこむ樹林が、春夏にはみずみずしい緑に、
秋には黄赤の彩りをみせる。
臨済宗天龍寺派の大本山。足利尊氏が後醍醐天皇供養のため、1339年(延元4)夢窓疎石を開山として創建した。
室町時代には京都五山の第1位を占めた。たびたびの火災で創建当時の壮大な面影はとどめていない。現在の諸堂は明治になって再建されたもの。法堂の天井には日本画家、加山又造筆の雲龍図lがあり、また方丈には藤原時代の釈迦如来座像(重文)と日光立像を安置している。
多宝殿は吉野朝の紫辰殿を模して建てた。約700年前当時の原型を残す庭園(名勝・史跡)は亀山や嵐山を借景にした池泉回遊式で、夢窓国師の作庭といわれる。
京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
075(881)1235
8時30分~17時[受付終了16時50分](庭園受付・北門受付)
庭園 500円(曹源池・百花苑)
交通 市バス:嵐山天竜寺前、JR:嵯峨嵐山駅、阪急。京福:嵐山駅、京都バス:京福嵐山駅前