世界遺産 天龍寺 (てんりゅうじ)名僧夢窓疎石が開創した禅刹 名勝嵐山を借景とした臨済宗の大本山。吉野で崩御した後醍醐天皇を弔うため足利尊氏が創建。 世界遺産。 嵯峨野の寺社めぐりは天龍寺からはじまる。京福嵐山本線の終着駅「嵐山」の目の前が天龍寺の境内である。 天龍寺は創建当初、いまの清凉寺あたりから嵐山までその範囲とするほど広大な寺域を誇...
世界遺産 銀閣寺(ぎんかくじ)室町八代将軍義政の隠棲地 正式には慈照寺。臨済宗相国寺派。1482年(文明14)足利義政が営んだ山荘東山殿を寺にした。 世界遺産 1489年(長享3)に上棟した銀閣(国宝)は宝形造2層の殿開。上層は潮音閣。下層は心空殿。庭の北にある東求堂(国宝)内部に茶室同仁斎があり、四畳半茶室の原型といわれる。 義政像...
世界遺産 高山寺(こうざんじ)三尾の老樹 茂る山中に立つ諸堂 高山寺は京都市右京区栂ノ尾(とがのお)にある古刹である。創建は奈良時代 世界遺産 高山寺は三尾の寺のなかで最も北に位置する。清滝川に沿って走る周山街道の白雲橋の先に寺域への表参道が斜めに上っている。又、JR栂ノ尾バス停から急勾配のジグザグに屈曲した石段の裏参道からも境内に入ること...
右京区 妙心寺(みょうしんじ)臨済宗のなかで最大の宗派 妙心寺の寺域は東西約470m、南北約540mの広さを誇り、46の塔頭を数える。 妙心寺の南門は下立売通に、北門は一条通に面している。寺域は東西約470m、南北約540mの広さを誇り、46の塔頭を数える。また日本全国に3400の末寺を擁し、臨済宗のなかでも妙心寺派は最大の宗派となっ...
世界遺産 金閣寺(きんかくじ)は鹿苑寺という臨済宗相国寺派の禅寺 正しくは鹿苑寺 臨済宗相国寺派。足利義満絶頂期の遺構 世界遺産。 金閣寺は正しくは鹿苑寺。臨済宗相国寺派。1397年(応永4)足利義満が営んだ山荘を、義満の死後、寺にした。金閣は宝形造の三層殿閣で、1950年(昭和25)放火で焼けたが、1955年(昭和30)再建された。30年に再...
世界遺産 仁和寺(にんなじ)最高位の門跡寺院 御室御所 密教芸術の宝庫で本堂、御影堂は御所紫震殿、清涼殿の移築。延暦寺と並び年号を寺名とする門跡寺院。 世界遺産 仁王門をくぐると中門につづく幅広い参道が、道というより広大な空間として広がっている。この広さがまず仁和寺の特徴であり、気持ちの余裕を生みだしてくれる。 仁和寺の歴史と建物 8...
世界遺産 龍安寺(りょうあんじ)一本の樹木も用いない石庭は相阿弥作 世界遺産 龍安寺の庭 一本の樹木も用いない石庭は15個の石を配し相阿弥作。 臨済宗妙心寺派の龍安寺北側に庫裏と方丈が建ち、方丈の前庭がその著名な「石庭」である。 東西25m、南北10m,油塀に囲まれたごく狭い空間に砂紋を描いた白砂を敷き、15個の石、立ったものもあれば、臥したもの...
左京区 永観堂・禅林寺(えいかんどう・ぜんりんじ)見返り阿弥陀と紅葉の寺 永観堂は通称で、正しくは禅林寺という浄土宗西山禅林寺派の総本山である ここ永観堂はふたつのことで有名である。南禅寺の北に寺域を接するように位置する。 ひとつは「見返り阿弥陀」とよばれ、うしろを振りむくように首を左にむけた高さ77cmあまりの小さなご本尊である。この仏像の由来はこう...
左京区 南禅寺(なんぜんじ)絶景の三門で知られる林間の禅刹 大泥棒の石川五右衛門が南禅寺の三門に昇り「絶景かな」といい、見得を切ったということ 南禅寺を紹介するときに、よくいわれることで、歌舞伎の舞台で大泥棒の石川五右衛門が南禅寺の三門に昇り「絶景かな」といい、見得を切ったということで、それが今日まで広く伝わっている。 でも、これは作者並...
東山区 三十三間堂(さんじゅうさんげんどう) 蓮華王院は創建当時の姿を残す! 画像 三十三間堂の名正しくは蓮華王院といい、妙法院に属す。 七条通りをはさんで、京都国立博物館の南に三十三間堂が建つ。 三十三間堂の名は堂内の柱間が三十三間(約60m)あることの通称で、正しくは蓮華王院といい、妙法院に属す。 後白川上皇はこの地周辺に法住寺御所を造営され、そこに平...
有名観光地周辺ガイド 建仁寺(けんにんじ) 京都で宗祖栄西最初の禅寺 建仁寺は日本臨済宗の宗祖栄西が京都で最初に建てた禅寺 日本の禅宗は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗で、建仁寺は日本臨済宗の宗祖栄西が京都で最初に建てた禅寺である。 それは栄西が2度におよぶ入宋後の1202年、元号でいえば建仁2年で、それにより寺名とした。 しかし当初は比叡山など旧仏...
八坂神社・丸山公園周辺 平安神宮(へいあんじんぐう) 朝堂院を模した流麗な建物 平安京 最初と最後の天皇を祀る平安遷都千百年の年に創建の平安神宮 平安京は794年(延暦13)から1869年(明治2)の東京遷都までつづいた。日本の都のなかで最も永く繁栄した都であった。しかし、天皇や公卿らが東京に移ると、京都は衰退の兆しをみせる。そこで考えられたのが京都市民共通...