清水寺の歴史
世界遺産
寺域の入口にまず朱色があざやかな仁王門が建つ。
京都最大級の仁王像(像高365cm)が寺を護るように安置されている。
石段を登ると鐘楼と八脚門の西門、そして優美な三重塔があらわれる。いずれも朱の塗り直しがおこなわれ、その朱色が音羽山の緑を背にして華やかである。経堂、そして田村堂とよばれる開山堂が建ち、そこには坂上田村麻呂夫妻、行叡(ぎょうえ)上人、延鎮(えんちん)上人の清水寺の開創を物語る4人が祀られている。
778年(宝亀9)、大和(奈良県)の子島寺の延鎮上人は夢告によって東山山麓に赴き、音羽の滝で、白衣の行者行叡に出会う。そこで霊木から観音像を彫るようにいわれ、完成した観音像を滝上の草庵に祀ったのが、当寺のはじまりという。
さらに、798年(延暦17)に延鎮上人に帰依した征夷大将軍坂上田村麻呂(758~811)が金色の十一面千手観音像を造り、田村麻呂の夫人が807年(大同2)に仏堂を寄進して、その観音像を安置した。
清水寺はそののちに、平安京を造営した桓武天皇(在位781~806)の御願寺となり、810年(弘仁元)には鎮護国家の道場となった。
清水寺はふるく北観音寺といい、南都六宗のひとつ法相宗として奈良興福寺に属していたため比叡山(北嶺) と「南都北嶺」の争いを生じ、たびたび堂塔は焼失したが、そのつど再建された。
本堂と「清水の舞台」清水寺の本堂は1633年(寛永1O)徳川3代将軍家光によって、今日私たちがみている正面約36m、側面約30mの巨大な建築物として再建された。
寄棟造りの本体に翼廊屋根を左右に付設した寝殿風様式で、屋根はすべてみごとな桧皮葺である。
堂内は太い丸柱が並列して外陣と内陣を分けて、荘厳な雰囲気にみちている。
そして、本堂の南に有名な「清水の舞台」が総檜張りで、空中に張り出して、新緑や紅葉の絶景となる錦雲渓とよばれる渓谷を見下ろす。懸崖造の代表的な建築物であるこの舞台は、高さ約13mで、下から見上げれば、縦横に組みあげられた豪壮な木組に驚嘆することだろう。
この大伽藍清水寺の全貌を眺めるには、本堂の東に建つ同じ懸崖造の「奥の院」の舞台からか、南側の高台にある子安塔あたりからがいい。
ほかの見どころをあげれば、奥の院の下の霊水「音羽の滝」、名庭をもつ子院の「成就院」、縁結びの神「地主神社」というこ
とになろう。
清水寺は京都を訪れる観光客の集客数では第1位の栄冠に輝いている。
京都市東山区清水1
075(551)1234
6時~18時
交通:京都駅より市バス100.206系統 五条坂下車徒歩10分又は五条坂、京阪:五条駅
清水坂、五条坂、茶碗坂、三年坂(産寧坂)など清水寺に向かう道は、四季を問わず人波の賑わいがとぎれることがないほどの混雑。
それは修学旅行生の「定番」コースになっていることや、有名な寺社のなかでは最も早く午前6時から開門すること、さらに以前から夜のライトアップ拝観に力を入れていることなども要因として数えられる。
京都市街の東を限る東山連山のひとつ音羽山の麓から中腹にかけて清水寺の諸堂が展開し、境内にいたる坂道沿いには賑やかに茶店や土産物屋が軒をつらねる。