正しくは鹿苑寺 臨済宗相国寺派。足利義満絶頂期の遺構
世界遺産。
金閣寺は正しくは鹿苑寺。臨済宗相国寺派。1397年(応永4)足利義満が営んだ山荘を、義満の死後、寺にした。金閣は宝形造の三層殿閣で、1950年(昭和25)放火で焼けたが、1955年(昭和30)再建された。30年に再建。三島由紀夫、水上勉の小説の舞台。
庭園は池泉回遊式で特別名勝・特別史跡。萩の違い棚と南天の床柱で有名な茶室・夕佳亭がある。
義満の公家意識が生んだ金閣寺
室町幕府第3代将軍として幕府の全盛期を築いた足利義満は1394年(応永元)将軍職を子の義持に讓り太政大臣になるが、幕府の実権は握ったまま翌年に出家する。そして、義満は自らを法皇に擬したものと考え、太上天皇の住まいである仙洞御所を欲した。その候補に上がったのが、衣笠山東麓の地である。
かつてこの地は平安貴族の遊楽の地で、とくに西園寺公経が築いた山荘の北山第は苑池を中心に諸堂や邸宅を配して「天下の壮観」といわれた豪華なものであった。北山第の敷地を1397年(応永4)に手に入れた義満は、金閣(舎利殿)を中心に新たな殿楼の造営をはじめる。義満はここで政務をとり、公卿貴族を集めて和歌や管弦、猿楽を催し、後世、北山文化といわれる華やかな一時期を築いた。
金閣の浮遊感のある構造
義満が没すると、子の義持は義満の遺命により夢窓疎石を開山として禅寺に改め、義満の法号鹿苑院から鹿苑寺と名づけた。そのため禅刹の中心に黄金の楼閣、金閣が残ることになった。鹿苑寺はその後、応仁の乱で多くの堂宇を失ったが、江戸時代初期に後水尾天皇の援助により再建されて、ほぼいま見る禅寺の伽藍というより庭園寺院という形に定まった。
「金閣」は義満が建立したままの形で残っていたが、1950年(昭和25)に鹿苑寺の若い僧によって放火され、全焼する。1955年(昭和30)に往時と同じ様式で復原され、さらに1986年から大規模修理がなされて、金箔がまぶしく輝く原初の姿が蘇ったのである。
金閣は三層の建物で、初層は「法水院」といい寝殿造風に公卿の邸宅として広縁をめぐらし、池側に柱を立て、その奥に蔀戸を設える。
二層は「潮音洞」とよぶ鎌倉期の武家造の仏間で、三層は「究竟頂」といい禅宗仏殿風造で火頭窓もみえる。二層、三層は全面に金箔をほどこして燦然と輝く。金閣は三層楼閣であるのに、どこか軽快感があるのは初層に屋根がなく二層につながっているところと、二層、三層の屋根が椹の薄い板を重ねた柿葺で、しかも反りがゆるやかで平面的であることによる。
さらに鏡湖池の水面に映る金色の影によって浮き上がってみえることも金閣の超然とした存在をきわだたせている。もとは四方を池に囲まれていたから、その浮遊感はいっそう極楽浄土の楼閣のごとく思われたに違いない。
京都市北区金閣寺町1
075(461)0013
9時~17時
参拝料金 大人(高校生以上):400円 小・中学生:300円
京都駅より市バス101,205系統金閣寺道下車 徒歩7分
アクセス
金閣寺の拝観入口では日本語、中国語、ハングル、英語併記の案内パンフレットが配られ、金閣寺がいかに外国人にも人気の寺院であることがわかる。中門をくぐるとすぐ鏡湖池の畔にでて、そこから金閣を背景に記念写真を撮る観光客で雑踏している。
中世以降、日本の美は華やかな色を避けて、侘び、寂びというモノトーンの「艶消し」の世界に価値を認めるようになった。それが今日の日本人の美意識につながっている。その美意識は鎌倉時代より武家と結びついた禅文化が発祥した表現であるといっても過言はない。だから、黄金に輝く「金閣」を禅寺にみるとき、私たちにとまどいが生じるのである。