知恩院は全国に7000余もの寺院と約600万人の信者を擁する浄土宗の総本山で、すべてにおいてスケールの大きな寺院である。
東山連山のひとつ華頂山を背後にして、7万3000坪という広大な境内をもつ。
まず豪壮な三門(国宝)。これは1621年(元和7)に徳川2代将軍秀忠が建立した高さ24m,横IIIm50mの現存する木造門では日本最大のもので、高い石段上に建つためにいっそうその姿を大きくみせている。楼上中央に「華頂山」と霊元上皇の宸筆をいただき、内部には宝冠釈迦如来坐像、十六羅漢像などを安置する。
法然と知恩院の創建
この三門をくぐり、正面の男坂とよばれる急峻な石段を登ると、広々とした境内に出る
(右になだらかな女人坂がある)。
御影堂(国宝)が南面して建ち、ここでは一度に2000人もの信者が集うことができるという。
この浄土宗最大の堂宇は1639年(寛永16)に徳川3代将軍家光によって建立され、開祖の法然像を祀っている。
1133年(長承2)美作国(岡山県)に生まれた法然(源空・1133~1212)は9歳のとき父を失い、その遺言により13歳のとき比叡山で仏門に入る。のちに延暦寺三塔のひとつ西塔黒谷の叡空に師事して修行をかさねる。
43歳のとき、ひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることによりすべての人が救われるという「専修念仏」の教えを確立して、比叡山を下りるのである。この1175年(承安5)を浄土宗開宗の年とする。
法然による浄土宗の教えは広く人心をとらえ、証空や親鶯といった高弟を輩出して大教団となっていく。しかし旧来の仏教界から反発を招き、法然は四国へ、親鶯は越後へ配流
されてしまう。法然は79歳で許されて京都に戻り、いま、知恩院境内の東側に建つ勢至堂あたりに禅房を建てて住まうが、翌1212年(建暦2)に80歳で入寂する。
今日の知恩院の基礎となったのは、1234年(文暦元)に門弟の源智が法然の廟堂をこの地に再建し、あわせて仏殿や御影堂などを建て華頂山知恩教院大谷寺と号したことによる。
それらは応仁の乱などで焼失するが、その後、織田信長や豊臣秀吉により寺領が与えられ、また江戸時代に入って徳川家康が生母伝通院の菩提を弔うために、多大な援助をして大伽藍を完成させた。ところが1633年(寛永
10)の火災で三門と経蔵を残してすべての諸堂を焼失してしまう。しかし、3代将軍家光が再興して旧観に戻すのである。
知恩院七不思議と梵鐘
広大な境内には、三門、御影堂、知恩院最古の建物の勢至堂、経蔵、唐門、方丈庭園など見どころは多い。
また、「知恩院七不思議」がある。
御影堂正面裏に名工左甚五郎が魔除けに置いた「忘れ傘」は火災の守りで、御影堂から大方丈、小方丈につづく550mの「鶯張りの廊下」は、そこを歩くたびに鶯が鳴くような音をたてるので、警護のためのものといわれる。大方丈入口廊下の梁上に置かれた重さが30kgもある「大杓子」のほか、襖絵の雀があまりにもリアルに描かれたため飛び立ったといわれる大方丈菊の間の「抜け雀」、どこからみても目があう大方丈廊下の杉戸に描かれた
「三方正面真向の猫」、そして知恩院が建てられる前からあったという「瓜生石」は黒門の西に残り、植えたはずのない瓜が一夜にして伸びるという伝説をもつ。
さらに三門の楼上には三門の建築を命じられた大工五味金右衛門夫婦の木像がおさめられている「白木の棺」がある。五味は建築予算を超えたときには自刃するつもりでいたが、後世に誇るものを建てようとしてやはり超過してしまい、夫婦で果てる。
その夫婦の冥福を祈るために現在の場所に白木の棺がおかれたといわれる。
また、1636年(寛永13)に鋳造された梵鐘は高さ3.3m、直径が2.8m、重さが約70tと巨大なもので、日本三大梵鐘のひとつである。
除夜の鐘では、撞木につながれた子綱を16人の僧侶が引き、親綱をもったひとりの僧侶が仰向けになって鐘に撞木をぶつける。京都の師走の歳時記である。
京都市東山区林下町400
075(531)2111
9時~16時(16時30分閉門)
境内参拝自由(方丈庭園400円、友禅苑300円、共通券500円)
http://www.chion-in.orjp/
京都駅より市バス206系統知恩院前下車徒歩5分