庶民的な阿弥陀堂、御影堂の念仏道場だが内部は伏見城の遺構で桃山文化の粋。
世界遺産
お西さんで通る、浄土真宗の総本山は親鸞聖人が宗祖。
親鸞を宗祖とする浄土真宗は、現在、1O派の本山、2万2000を超える寺院、約1300万人の信者をもつ日本最大の宗派である。西本願寺は本願寺派の本山東本願寺は大谷派の本山である。
本願寺と東西の分断
本願寺の歴史は、親鸞の没後、末娘覚信尼が1272年(文永9)に、現在の知恩院三門の北付近に廟堂を建てたことにはじまり、その堂宇を覚信尼の孫、3世覚如が本願寺と称し、蓮如が大教団に発展させた。
この民衆教団の飛躍的な発展と組織力は、旧仏教界との衝突、時の権力者からの圧迫を生み、蓮如は近江、越前、山科と転々とする。
しかし、山科本願寺も焼討にあい、大坂の石山本願寺に移る。織田信長が将軍足利義昭と対立するようになると、11世顕如は1570年(元亀元)義昭に味方して信長の陣営に攻撃をかけて、11年間にわたる石山戦争が勃発した。
これは信長が正親町天皇に調停を依頼し、和議が成立、顕如が石山本願寺から退出することで終結した。
そののち紀伊、和泉貝塚を経て大坂天満へ本願寺は移っていくが、1591年(天正19)に豊臣秀吉の寄進をうけて現在の場所に寺域が定まった。
顕如には教如と准如というふたりの息子がいた。内部抗争があって、次男の准如が12世を継ぎ、教如は隠退させられた。そこに目をつけたのが徳川家康で、これまでいくたの為政者を悩ませた一大宗教王国の勢力を分断させるべく、教如に六条烏丸の土地を与え、1602年(慶長7)に東本願寺を建立させたのである。
西本願寺の伽藍
現在の御影堂は1636年(寛永13)、阿弥陀堂は1760年(宝暦10)の再建である。御影堂は東西48m、南北62m、高さ29mの偉容を誇り、内陣中央に親鸞の木像を祀る。
外陣がきわめて大きく、734畳敷の大広間は全国からの信者を収容する。阿弥陀堂は、東西42m、南北45m、高さ25mで、阿弥陀如来像を中心に、
インド、中匡|、日本の六師を祀っている。このように本堂の阿弥陀堂より宗祖を祀る御影堂のほうが大きいのが真宗伽藍の特長といえる。
西本順寺の唐門は伏見城の遺構で、桃山時代の装飾彫刻の粋で、その美しさに日暮れまで見とれてしまうことから「日暮門」ともよばれている。また秀吉の聚楽第から移されたといわれる三層柿葺の楼閣建築である飛雲閣、渡辺了慶とその一門が描いた障壁画にかこまれる本願寺書院、現存する日本最古の北能舞台など、西本願寺の諸堂は桃山時代から江戸時代初期の装飾美を極めた建築物の宝庫である。
なお、東本願寺は約9万3000㎡(約2万8000坪)の広大な寺域のなかに、南北76m,東西58m、高さ38m、927畳の大広間をもち、木造建築では世界最大級の御影堂、その南側に南北52m、東西47m、高さ29mの本尊阿弥陀如来像を祀る阿弥陀堂が建つ。また寺宝として、親鸞自筆の「教行信証」6巻を所蔵している。
京都市下京区堀川通花屋町下ル
075(371)5181
5時30分~17時30分(5月~8月は18時11月~2月は5時30分~17時
境内参拝自由(飛雲閣・書院は通常非公開・特別拝観日がある)
HP: https://www.hongwanji.or.jp/
京都駅より市バス9.28.75系統西本願寺前下車 1分