平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさしていたといわれています
葵祭(あおいまつり)は正式には賀茂祭という。
京都市の賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)とで、5月15日(陰暦4月の中の酉の日)に行なわれる例祭のことです。
平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば葵祭のことをさしていた。
賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代の1694年(元禄7)に祭が再興されてのち、当日の内裏宸殿の御簾をはじめ、牛車(御所車)、勅使、供奉者の衣冠、牛馬にいたるまで、すべて葵の葉で飾るようになって、この名があるとされる。
引用:ウィキペディア(Wikipedia)
石清水祭(9月15日)、奈良・春日大社の春日祭(3月13日)と共に三勅祭(さんちょくさい)の一つであり、庶民の祭りである祇園祭に対して、賀茂氏と朝廷の行事として行っていたのを貴族たちが見物に訪れる、貴族の祭となった。
京都では石清水八幡宮の南祭に対し北祭ともいわれています。
平安時代以来、国家的な行事として行われてきた葵祭には歴史があり、日本の祭のなかでも、数少ない王朝風俗の伝統が残されている。
葵の花を飾った平安後期の装束での行列が有名で、斎王代が主役と思われがちだが祭りの主役は勅使代である。
葵祭の当日は季節の変わり目であるために、大気の不安定な時期での祭りの為、にわか雨に濡れることなどが多く、1995年(平成7年)には雨天によって戦後初の中止になっています。
又、2020年(令和2年)・2021年(令和3年)・2022年(令和4年)と、新型コロナ感染症拡大防止の観点から、「路頭の儀」が中止となっています。
祭儀
前儀
葵祭の前儀には、5月3日に下鴨神社での鏑流馬神事から始まり4日の斎王代御禊(みそぎ)の儀、5日の歩射神事、上賀茂神社での賀茂競馬(かもくらべうま)、12日に神霊を迎える御蔭(みかげ)祭りと続いて、15日の葵祭を迎える。
路頭の儀
5月15日に行われる葵祭の儀式の一つで,京都御所から出発して下鴨神社を経て上賀茂神社へと向かう行列のことをいいます。
行列の構成や順路は,祭りや行列が中断されていた時期が複数回あるため,時代によって異なります。
例えば,平安時代は,勅使は宮中を出発した後,途中で斎王(神に奉仕する皇女)と合流し,下鴨神社へ向かいましたが,現在は,京都御所から勅使などの本列と斎王代(昭和31年から京都在住の未婚女性)列が一緒に出発します。
路頭の儀では乗尻を先頭に検非違使・山城使・内蔵寮史生・馬寮使・舞人・近衛使(勅使)代・陪従・内蔵使からなる騎馬の文官・武官を中心とする本列(勅使列)と、斎王代をはじめとする女人列からなり、これら平安時代の衣装を身にまとった人々が牛車とともに京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで約8kmの道のりを行列する。
注釈
^ のりじり。古くは六衛府の衛士が勤めたとされる騎馬隊。
^ けびいし。「検非違使尉」と「検非違使志」といった検非違使庁の官吏。
^ やましろのつかい。賀茂神社は、京職の管轄外で山城国の国官の管轄であったため、国府次官の「山城介」を警備と監督にあてた。
^ くらりょうのししょう。下鴨神社・上賀茂神社に献上する御幣物を管理する役人。
^ めりょうのつかい。左馬允という左馬寮の官吏を充てた。
^ まいびと。神事用の歌舞「東遊(あずまあそび)」を舞う武官。
^ このえのつかい。かつては、近衛中将が賀茂祭の勅使として遣わされる慣例があったため。もっとも、実際の天皇の使いである勅使として天皇から掌典職の掌典が遣わされているが、勅使は行列には加わらず、「近衛使代」と呼ばれる代行者が行列に参加している。
^ べいじゅう。歌楽を奏する武官。
^ くらのつかい。内蔵寮の官吏で、勅使が神前で奏上する御祭文を奉持する。
^ くろうどどころばいじゅう。斎院の蔵人所(物品会計を司る役)の雅楽を演奏する役人。
^ みょうぶ。一般女官の総称。小袿、単、打袴。
^ にょじゅ。女官の下位で、食事を司る。小袿、単、打袴。
^ わらわめ。行儀見習いとして奉仕する少女。
^ むまのりおんな 神事を司る女官で、騎馬で参向する。
^ ないじ。身分の高い貴族の娘から選ばれた女官。
^ おんなべっとう。斎院の内侍以下女官を監督する役。
^ うねめ。斎院の神事を司る女官で、斎王代同様、額の両側に日蔭糸を垂れ流す。青海波といわれる彩色模様の装束。